ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

9、脱線部分

 哲学(人間の身の丈にあった思考)→科学(倫理を超えた思考)→幻想文学(科学の範疇から外れた思考)→そして、このサイクルは繰り返される。
 高山宏なりのマニエリスムの定義は、以下のとおり。
 『この本なりのマニエリスムの定義をもう一度整理してみると、それは三つの条件、1認識論的な哲学、2光学を中心とする自然科学、3幻想文学といわれる文学、からなる文化相だった。
 この三つ組がたえず繰り返されてくる。引き金になるのはいつも、人間の置かれた不安な状況である。ソリッドなものが成り立たなくなり、固定されたものや足を置ける地盤がなくなったとき、こういったタイプの文化が登場する。これを文学史として書くならば、まず認識論から始まり、光学、そして幻想文学へとつながることになるだろう。』
 十七世紀前半の英文学も、さまざまな現象があるように見えるが、上位概念にホッケのマニエリスムをしつらえると、すべて一貫したものとして説明できるというのが、高山宏の英文学探究の出発点である。
 
 寄り道
 @ルネサンスの観念は昔からあるように思われるが、十九世紀の後半にブルック・ハルトとウォルター・ペイターが生みだしたものである。
 @ヨハン・コメニウスの「世界図鑑(オルビス・センスアリウム・ピクトリウム)」略称「オルビス」。これが画期的なのは、言葉では説明できない内容をすべて絵にした世界最初の絵引き辞書という点である。
 @シェイクスピアの晩年の四つの芝居は、当時の魔術思想に基づいて作られたものである。それ以前の戯曲は、登場人物たちのキャラクターとキャラクターが衝突しながら、人間の心理関係の中で合理的に説明できるような変質の仕方をお互いが遂げてゆく。
 ex、AがBに嫉妬する。Bがこうなり、Cがこうなり、Dが零落する。要するに、シェイクスピアをみれば人生勉強になる。
 晩年の作品は、和解できないあらゆる矛盾が超越的な力によって和解するという発想の源をイエイツ女史は当時の「薔薇十字」の思想に求めた。
 @『シェイクスピアの難しさ、楽しさをいうためのモデルになった詩の究極のアンビギュイティは”true”と”false”そして”lie”の両義(だれかと寝る、sexする/うそをつく)にかかわるものである。「おまえはぼくにうそをついて裏切った(false)がうそをつくことを本質とするおまえ自身のその本質には「正直(ture)」なわけだといった、ひとひねりきいた論理でいっぱいなのだ。』
 『文学的言語は、シンプルに何かを伝えるよりも、あいまいに伝えることに価値があったあいまいな世界だったからだ。しかし、あいまいな文学言語は、一六六〇年でとどめを刺されてしまった。ダンは忘れさられ、シェイクスピアは読まれなくなり、まともなシェイクスピアは上演されないばかりか、近代各時代の市民的な道徳に一致するようなものに改作されていった。』
 エドマンド・バークは、「プレジャー/快楽」と「ディライト/自分ではない安堵感、他人の不幸」に区別した。」
 @ヨーロッパ文化の根本は造園術ex、フランスは世界一のシンメトリー好き国家。イングリッシュ・ガーデンに直線路は皆無で、目的地に行くには迂回しなければならない。
 @絵画は、多義性を有した象徴的なモチーフを描くことから、自然科学主義のレンズを介して見る「標本」としてのモチーフを正確に描写することになった。”描写”とは、そのモチーフを科学的に正確に描きだそうという思考、パラダイムから生まれたのだろう。
 @デパートとは、客が、見ること・分類すること・展示すること、に加えて購入することができる博物館なのである。
 @「ディテクト/detect」という言葉は、「屋根のついた建物の屋根をはがす」という意味である。結局、あらゆる小説がのぞき小説であり、”もの”の屋根をはがして上から見ている構造である。
 @マジックという言葉には、「手品」と「呪術」という意味がある。
 @文学は、メディアである。
 @メロドラマにストーリーは必要ない。必要なのはバケツ五杯分の血のりだ。たとえば、いきなり男が女を殺す。ストーリーは最後までわからなくても別に構わない。メロドラマで一番有名なのはシラーである。
 @十九世紀の演劇は、ドラマではなく、スペクタクルの時代であった。

【参考図書】
高山宏 奇想天外・英文学講義 講談社選書メチエ