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キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

透明な存在の不透明な悪意 宮台真司

 透明な存在の不透明な悪意 宮台真司
 ■少年Aの犯罪と少年法
 
 日本の少年法は、善悪が分からない子供が罪を犯してしまったという前提の上に成立している。だから、酒鬼薔薇聖斗(少年A)のように、善悪をはっきりと理解した上で、犯罪をやった子供がその罪を認め、改悛の情を示してしまうと、少年犯罪に関わる法的枠組どころか、少年そのものに関わる社会的通念の枠組自体が根底から揺らいでしまう。
 だから、法廷は酒鬼薔薇聖斗を特別で、異常な状態であったとした。これは、戦後日本国における子供・少年少女がイノセント(無垢)なものであるという子供幻想を維持するための国家的措置であった。

 
 ■どうして人を殺してはいけないの?という質問に答えづらいのか。

 『私たちが人を殺さないのは人を殺してはいけない明確な理由があるからではない。人が滅多に人を(平時において仲間を)殺さないという自明な事実に対する信頼がまずあり、その上で人を殺してはいけないという観念も抱かれるし、かかる観念に基づく殺人への否定的反応も生じる。しいていえば、同胞同士が滅多に殺し合わないという事実の上に、共同体のさまざまなルールや期待に基づく私たちの行為や体験の総体が、積み上がっているということがあり、だから自明性は疑われにくいのである。』
 『それを「根拠なき自明性」と言うことができるだろう。したがって、この自明性が疑われはじめると、疑いを払拭するような明晰な根拠を持ち出すことは、そもそも困難になる。』
 『多くの社会では、根拠なき自明性の根拠のなさに真正面から向き合う可能性を、宗教が抑止してきた。宗教のおかげで、人々はこうした「端的なもの」に向き合う可能性を免除されてきた。だからこそ人類史上どんな共同体も、例外なく共同体の宗教を伴ってきた。残念ながら、(※現代の)私たちの社会は、既に宗教を共有するという自
明性から見放されており、今やそもそも共同体であるかどうかすらも疑わしいという状況に到った。この状況を考えることは、時間の矢の向きを逆にするのと同じくらい困難である。』

 ■犯人からメディアやサブカルチャーの影響があるのはなぜか?
 一九五六年から始まった団地化した世代にとって、日本全国の少年少女の共通体験はメディア(テレビ・ゲーム・マンガ)しかない。だから、大人になっても言葉のイメージの中に、メディアやサブカルから得たものがあるのは仕方がないことである。

 ■伝統的な社会が産業化することで、子供と教育の関係はどう変化するのか。

 伝統的な共同体の社会では、大人はみんな同じ知識を持ち、同じ感受性を持って、同じことをしていると思われていたし、そうであった。
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 産業化されると、職業といってもブルーカラー、ホワイトカラーもあれば、その内にも事務職もいれば、研究職もいるし、営業職もいる。大人の社会のなかが高度に分化している。そういった社会のなかに、子供をやがて大人として社会に参入させる教育は非常に難しい。
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 ところが、社会が成熟すれば「立派な大人」という観念はなくなる。なぜなら、輝かしい未来像がなくなるからである。「輝かしい未来」という観念がなくなったら、「立派な大人」という観念が立ち行かなくなる。
 なぜなら、「立派な大人」という観念は、輝かしい未来をもたらす存在、輝かしい未来に向けて社会を建設する人々だからである。輝かしい未来がなくなったら、子供にとって、大人とは何のために存在しているのかよく分からないことになる。
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 そんな、大人。何のために存在するのか分からない大人になるための動機づけを日本の教育は可能なのだろうか。大人になる意味を喪失したことで、義務教育がいっそう問題をはらみやすいものになった。

 ■学校化と郊外化 核家族の誕生と崩壊
 1950年代後半から核家族が一般化する。世帯の核家族化によって専業主婦が誕生する。これにより、子供は地域でみんなで育てるものから主婦や夫婦だけで育てるものへと変化した。
 この核家族化における生活の変化や子供の成育環境の変化を郊外化とする。
 
 郊外化が成立するには3つのプロセスがあった。
 ①地方の冷や飯喰いの次男、次女以下が都市部へと労働者として流入した。
 ②男が労働者として働き、女はそれを支えるという経済的な豊かさが確保されていた。
 ③テレビの普及によって、アメリカのホームドラマを通じて、日本人は家族の理想にかくあるべしと思い込んだ。
 70年代後半に郊外化の理想は崩壊する。(代表例はテレビドラマの「岸辺のアルバム」である。)
 結婚が、女性メディアの中心テーマでなくなり、セックスがテーマとなる。性が結婚のための資本というより、いまを生きるための資本・資質として取り上げられるようになる。
 郊外化した家族からロマンチックな幻想が消える。家族幻想を抱いている人たちはそれを維持しようと努めようとすることで、家庭内に色々な歪みが生じることになった
 
 学校化のはじまりは、郊外化によって、分相応の仕事をする、地域社会の中で役割を果たすということが消えはじめ、子供の社会上昇、生涯賃金の高額化を狙って、両親が自分の子供に教育投資をし、子供が学校の成績の最も高い点数を取るように仕向けることであった。教育投資をしていれば安心する親がいて、成績さえ良ければ子供は何も言われない。世間の目がある地域社会がないので、子供たちから道徳感がなくなるが、親たちにとっては学校の評価が一番であった。それが子供の将来を裕福か貧乏か決める重要な要素だからである。
 郊外化以前には地域社会が存在した。学校は地域社会の一部に過ぎなかった。教師から生徒への暴力・体罰でいえば、殴られるような子どものあいだで起ころうが、教師と子どものあいだで起ころうが、何が理由でどういうことが起こっているのかお互いに透明である。そういう状況では理不尽さを感じることが少なく、ストレスがたまりにくい。さらに大人社会というものがいまほど不透明ではなく、唾棄すべき汚らしいものだと思われていなかった。子どもは大人社会に対する夢を共有することができた。そ
れもまたストレスの低減要因となる。
 
 ■学校化・郊外化によって、人は他者と競争し、自分の夢を叶えるために、サクセスするために生きてゆく意識を持つことになってしまった。しかし、それは人類の歴史からみれば異常なことではないか?
 
 人類の歴史を共同体的な段階まで遡れば、今日あったように明日もあるし、昨日あったように今日もある。何も別に新しいことは起こらないけど、定期的にときどきお祭りがあって、それでわぁーと発散して、また元に戻って、そのくりかえしで、気がついたら歳をとってて、しずかに死んでゆく、そういう暮らし方がむしろ人類何千何万年の生きかたであった。未来の輝かしい夢、ないし自己実現欲求をかかえながら、自己実現の度合いに一喜一憂し、また未来を見つめて生きるという生き方は、むしろ例外的な生き方である。
 昔は世間というものがあり、世間の規範に沿って親も教師も行動していた。だから親や教師のいうことが恣意的だとは受け取られなかった。世間を代理していると思えるか思えないかということが相当重要であった。だから、受け手は、相手が恣意に傾いていると思ったら反発した。
 成熟社会になる。幻想の共有がなくなる。人それぞれ別の物語を生きるようになる。その物語は相対化にさらされ、脆弱になる。物語や幻想から人は自由ではないので、自明性が失われているにもかかわらず、というか、それゆえにこそ物語にますます固執せざるをえない。他人から見ればまったくトンチンカンな物語を人に押しつけ、トンチンカンな物語にしたがった行動で他人を傷つけることになる。それゆえ、そういう幻想の相対性を前提にしたうえで、共生の可能性を模索することが課題となる。
 人々が別々の幻想を生きるようになったとき、個々の幻想を生きる人間が両立できるのか、共生できるのかということである。比較的お互い傷つけあわないで、生きのびることが重要である。その前提になるのは、物語を生きてはいけないということではなく、物語を生きざるを得ない人々が沢山いるという事実である。
 多くの人は近代以降「意味の病」を病み続け、幻想なしには自分を奮い立たせられないし、頑張りもきかないことは、自明である。


図書『 透明な存在の不透明な悪意』 著:宮台 真司   春秋社

※ カルト団体の犯罪は、退屈な現実をフィクション化・ゲーム化してゆく犯罪ではないか?日本の社会はあまりにも完成され尽くして関与する隙間がない。だから、サリンを使ってゼロに戻そうとする。
  
 学校化した社会の生徒の特徴としては、ヤバい奴の代表としての「少年A」か子供の純心さを失うことがない「少年H」しかいない。
  
 学校の評価が一番であるから、生徒を査定する先生に自分の考えがばれるようなヘマをするようなことはしない。
  
 学校教育が「善」しか教えられないというのは、近代教育の限界ではないか。
  倫理は、ユダヤキリスト教の歴史がないと生まれない。日本にそれはないので道徳しかない。けれど、道徳を規制する共同体がなくなってしまったら、どうする?
  
 人間は大いなる可能性において幻想を生きる。幻想がヴィヴィッドでないと、現実が現実ではなくなってしまう。