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キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

岡田英弘 言語によって歴史という言葉の意味の違う

言語によって歴史という言葉の意味の違う ヒストリア、リイシイ、レキシの違い
 
 岡田英弘は、歴史という言葉の意味が、ヨーロッパと日本と、chinaとではまったく違うとという事実を指摘する。
 『ヨーロッパでは、ヘーロドトスのむかしから、人間の傲慢が神々の怒りを引き起こして破滅が到来する過程を物語るのが歴史(ヒストリア)であるということに
なっている。だから、神々の栄光を正面から賛美しないまでも、人間の意志の壮大さと実力の限度とのギャップから生まれる悲壮美が、今でもどの史書をとっても、
主題になっている。つまり、これはギリシャ神話である。
 これに反してシナは、オリュンポスの神々もいなければヤハヴェやアッラーもいない。天というものはあるが、その意志である天命とは、つねに人民の皇帝に対す
る態度を通して下界に顕現するものということになっている。つまり、天は政治そのものである。言ってしまえば、人民支持を確保する能力、これがシナの皇帝の資
格なのであって、これを持っているのが、「天命を受ける」ということなのである。
 そして、皇帝がいかにこの資格をみずから証明したか、またはそれに失敗したかを書き留める、これがシナでの「歴史」(リイシイ)の意味である。そして、シナ史書の構成も、こうした歴史の本質に沿ってできている。
 日本で「歴史」といえば、いつ、どこで、どんなことが起こったのかを、理屈抜きで記録するもののようで、事件のディティールに異常に強い関心があるらしい。
八世紀に「日本書紀」が出現して以来、どの史書もみな年月月日順の事実の行列で、言ってみれば詳しい年表にすぎない。
 ディティールへの執着は、日本の映画やテレビ・ドラマにはっきり現れていて、何のプロットもなくただお茶ばかり飲んでいたり、時候の挨拶をしたり、食事をしたりする日常生活の描写が大部分で、事件らしいものが起こることは珍しい。こういう不思議なショーをあきもせず喜んで見ているわれわれ日本人にとっては、歴史もしょせん私小説なのだろう。』
 漢人の日記を例に挙げて、現実世界の何を書くのか説明する。
 『ところが、漢人は違う。漢人にとって、何かを書くという行為は、あるべきことを書くことを意味するのである。歴史の記録の場合には、事が期待するとおりに起こらなければ、これを無視するか、または記録者の理想を書きつけ、世界をさらに完全にするしかない。
 これは近代中国の日記などによくあることだが、同時代の外国人の記録と照らし合わせてみると至るところで食い違ってしまう。これは、中国人が先天的な嘘つき
で日本人や欧米人が正直だということではない。中国人にとっては、それが好みに合った真実なのであり、そのほうがずっと本当らしくていいのである。』
 各民族によって、歴史に求める真実が異なるので、次のように留意する必要がある。
 『日本人好みの「私小説的(あるがまま)」歴史を書こうとすると、この真実の定義の差のために、史料の解釈がとんでもなく狂ってくることになる。』

【参考図書】
岡田英弘 岡田英弘著作集 3 日本とは何か

岡田英弘 1931年東京生。歴史学者。シナ史、モンゴル史、満洲史、日本古代史と幅広く研究し、全く独自に「世界史」を打ち立てる。東京外国語大学名誉教授

東京大学文学部東洋史学科卒業。1957『満州老檔』の共同研究により、史上最年少の26歳で日本学士院賞を受賞。アメリカ、西ドイツに留学後、ワシントン大
客員教授東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授を歴任。
著書に『歴史とはなにか』(文藝春秋)『倭国』(中央公論新社)『世界史の誕生』『倭国の時代』(筑摩書房)『チンギス・ハーン』(朝日新聞社)『中国文明
歴史』(講談社)『読む年表 中国の歴史』(ワック)『モンゴル帝国から大清帝国へ』『(清朝史叢書)康熙帝の手紙』(藤原書店)他。編著に『清朝とは何か』
他。