ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

「俠」とは

 「俠」の精神を体現した人とは? 
 自己が、他者との間に交わした約束を絶対視し、自分の金銭・物品を惜しみなく使用し、時には命に代えても相手と結んだ約束を守ること。
 つまり、自分が相手と、一度交わした約束を、自分の財産・生命を惜しまずに果たすことである。それが窮屈な表社会の不文律をぶち壊す爽快さを伴うので、俠客は庶民から慕われる。

 自己を犠牲にするのであれば、「俠」とは「忠」ではないか。 「俠」と「忠」の違い
 「俠」は、相互の未来の安定を願って契約した上下関係、君臣関係を規定する「忠」の理念の強制力によって、死を選ぶのではない。俠者が約束を果たすのは、義務ではなく、本人の自由な意志に基づいて下した決定である。
 主従・君主といった上下関係を規定する「忠」の理念の強制力によって、死を選ぶのではなく、「俠」とはあくまでも本人の自由意志に基づいた”死”をも顧みない果敢な行動である。
 作者は「趙氏孤児」を例に挙げる。(春秋時代の晋の重臣、趙氏の家系にまつわり、さまざまな俠が出現する。)
 『なぜなら、このとき譚嗣同は固定した上下関係、君臣関係を規定する「忠」の理念の強制力によって死にざるをえなかったのではなく、みずからの自由意志によって死を選んだのだから。「忠」と「俠」のもっとも根本的な差異は、俠者がなんらかの「義」にもとづく行為に踏み切るのにさいし、まず個人の自由意志によって、何をなすべきかを選択するところにあるといえよう。春秋時代の程嬰も公孫杵臼も清末の譚嗣同も梁啓超も、こうして自由意志によって俠の道を歩んだのである。』
 
 人間の生物としての特徴の一つに約束を交わすということがあると思う。自分が相手からしてもらった、なにかしらの恩に対して、それを返すために、受けた恩に相当するようなことを相手に行うようなことである。これが動物の場合であれば、自己と他者は生存競争を行うライバルであり、譲りあうこともなく、相手を助けることもないだろう。人間以外の生物は、自分以外の存在と約束を交わすことがない。
 つまり、弱肉強食の酷薄な論理が人間関係の信義を、約束を、希薄なものにする中で、人と人との約束を命がけで守りぬく、信義を貫く「俠」であることこそ、公的価値があるのである。だから、人々は、「俠」を後世に語り継いでいったのだろう。
【参考図書】
井波律子 中国侠客列伝 講談社学術文庫

※、一諾千金 漢代の希布は信義に篤いことで知られ、その承諾を得ることは黄金千斤よりまさるとされた故事から
 俠→侠
 
 俠客は爽快な倫理と仲間同士の信義を矜持とする。これは、表社会が窮屈で正されない不正に満ちているからである。正しさがわかっているのに正されないからである。俠客だけは、不正を捉えて、正す実行力をもっている。
 
 双全とは、対をなすものが両方ともそろっていること
 ex.文武双全、父母双全
 つまり、忠義双全とは、忠と義という相反するものがそろっていることである。

ある剣道家の著作に書いてあったとおもう。
 人間だけが誰かと約束する生き物である。
 人間の生物の特徴として、約束というものがある。生存の有無を問わず、人間は、他者と約束する。
 約束を守ること、果たすことで人間らしさが証明される。約束を破る人は、信用が置けない人間であるとされ、相手にされない、無視、存在の否定につながることもある。但し、守り難い約束も存在する。
 人間としての教育は約束を守ることを教えるべきといった、教育論にしていたような、、、、