ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

「史記」の刺客列伝と戦国四君子から「俠」を考える

 自分と相手との約束を、「俠」の行動要因である身命を賭した果敢な行動を、史記の刺客伝から考える

 刺客は、王に該当する人物の殺害を行おうとするのはなぜか?
 王を殺すことは政情を変えることに繋がり、要人の殺害・暗殺というテロルは世界を変える可能性を秘めているからである。近代政治システムが構築されていないので、行政・司法・立法・軍事を掌握する王を殺すことは、国内のパワーバランスが崩れることを意味している。

 例、伝説的刺客五人と戦国四君
 曹沫-曹沫は魯の荘公に仕えたが、大国の斉と三度戦い、三度敗北したが、荘公は曹沫を責めず、将軍のままにした。そして、敗戦をうけて、魯の荘公は斉の桓公と会合し、講和を結ぶことになった。荘公と桓公が会場で講和の手続きに着手している最中に、曹沫は単独で匕首を手に桓公を脅し、魯の斉に対する講和条件をチャラにした。
 『曹沫は、たびかさなる敗北にもかかわらず、自分を信任しつづけてくれた荘公に、こうして恩返ししたのである。主君荘公のあずかり知らぬところで敢行された、曹沫の行為は徹頭徹尾、自発的なものにほかならない。この自発的な曹沫の行為には、一滴の血も流さず、今をときめく斉の桓公を恐れ入らせ、小国魯の言い分を通したという点で、非常に爽快なものがある。』
 
 専諸-我が身を顧みず、呉王僚を早業で殺害したが、専諸自身も王の側近に殺されてしまう。
 
 豫譲-『(前略)彼は、曹沫や専諸のように目的を達成することも、「世界を変える」こともできなかったけれども、なればこそ結果をかえりみず、ひたすら趙襄子の命
を狙い、復讐の一念をつらぬいたその姿は、俠たる者の存在様式を鮮烈に象徴しているともいえよう。(後略)』
 
 聶政-「己を知る者」、すなわち自分を深く理解してくれた者の厚意と信頼に報いるために、刺客となり、韓の国の宰相を殺害する。

 荊軻-始皇帝暗殺という目的達成の見通し悪い、絶望的な依頼であっても、仲間たちの信義を重んじるために約束を果たすことが「俠」であった。
 
 刺客五人を司馬遷は、
 『曹沫より荊軻にいたる五人、此れ其の義、或いは成り、或いは成らず。然れども其の意の立つること較然として、其の志を欺かず。名は後世に垂る。豈に妄ならんや』
 と記している。
 「俠」とは、実現の可能性の有無に関らず、自分が相手と交わした約束を違えずに、身命を賭して実行することであろう。
 
 戦国四君は、刺客たちとは異なり、国の要職につき、その手腕を振るう一方で、多くの食客を擁する遊俠の頭目であった。食客たちは、危機に際して役に立つから、それまで衣食住の世話をしてくれないか、という約束を頭目と結んだ。
 世話になった食客は、世話をしてくれた頭目が危急のときには約束を反故にせず、約に違わぬ働きをすることが求められた。食客が、頭目との信義を貫く果敢な姿を、作者は「俠」であるとする。
 戦国四君孟嘗君、平原君、信陵君、春申君である。 
【参考図書】
井波律子 中国侠客列伝 講談社学術文庫
※、一諾千金 漢代の希布は信義に篤いことで知られ、その承諾を得ることは黄金千斤よりまさるとされた故事から
 俠→侠
 
 俠客は爽快な倫理と仲間同士の信義を矜持とする。これは、表社会が窮屈で正されない不正に満ちているからである。正しさがわかっているのに正されないからである。
俠客だけは、不正を捉えて、正す実行力をもっている。
 双全とは、対をなすものが両方ともそろっていること ex.文武双全、父母双全
 つまり、忠義双全とは、忠と義という相反するものがそろっていることである。
ある剣道家の著作に書いてあったとおもう。
 人間だけが誰かと約束する生き物である。
 人間の生物の特徴として、約束というものがある。生存の有無を問わず、人間は、他者と約束する。
 約束を守ること、果たすことで人間らしさが証明される。約束を破る人は、信用が置けない人間であるとされ、相手にされない、無視、存在の否定につながることもある
。但し、守り難い約束も存在する。
 人間としての教育は約束を守ることを教えるべきといった、教育論にしていたような、、、、