ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

虚構の世界の俠

 虚構世界の俠 たとえば、「唐代伝奇」において登場する聶隠娘
 
 物語の中の、虚構世界における「俠」は、「天に替って不義」を打つ俠者という、歴史世界のそれとはまったく様相を異にする。
 「拍案驚奇」に収められた、俠女の物語では、
 『不義とは、具体的には民衆を害する強欲な役人、まっとうな部下を迫害する傲慢な高級官僚、私腹を肥やすことに汲々とする軍隊の指揮官、下劣な小人物ばかり重用する宰相、賄賂をとって平然と不正入試を実施する科挙の試験官等々を指し、剣俠にこの憎むべき悪人どもを制裁するのだという。標的が悪人というだけで、曖昧模糊としていた聶隠娘に比べると、十一娘の標的はすこぶるリアルにして具体性を帯びているのが見てとれる。』と不義を定義する。
 
 水滸伝
 「替天行道」とは、天にかわって道を行うという言葉である。
 「忠義双全」とは、忠と義という相反するものが、並立するという意味である。
 
 物語の中での「俠」とは、世のはびこる不正を正して欲しいという、市井の人々の願望が生んだヒーロー像であろう。そんなヒーローは、なかなか有りえない存在であるから、「俠」とは夢のような存在である。
 『長らく近世語り物の世界で語り伝えられた「水滸伝」には、市井に生きる人々の「天に替わって道を行う」俠的存在に対する憧憬や期待がこめられている。それぞれ抜群の武勇や特技をもった豪傑たちが、悪のはびこる表社会から逸脱して、梁山泊に結集し悪しき権力と対抗する大共同体を作りあげる。この共同体でもっとも重んじられるのは仲間同士の信義であり、豪傑たちは女性に対する欲望、金銭欲、権力欲等々、すべての暑苦しい欲望を捨象して(食欲と飲酒への欲望は別だが)、爽快な共同体の倫理に生き、弱きを助け強きを挫くことに邁進する。このきわめてストイックで雄々しい俠者像は、まさしく庶民の願望充足の欲求によって生まれたものにほかならない。』
 司馬遷は、游俠たちは、法にさからったけれども、その個人的道義は清廉かつ謙譲であり、称賛に値する、として史記に記した。彼らの称賛に値する行為とは、人が人との約束を守るという単純なことである。つまり、約束を果たす人が珍しかったからこそ、法に逆らうことがあった人でも、称するに値するのである。
 ただ約束を守るという、簡単に思えることは、とても難しいことなのだろう。だから、俠客と呼ばれる人物は少ないのだ。

【参考図書】
井波律子 中国侠客列伝 講談社学術文庫
※、一諾千金 漢代の希布は信義に篤いことで知られ、その承諾を得ることは黄金千斤よりまさるとされた故事から
 俠→侠
 
 俠客は爽快な倫理と仲間同士の信義を矜持とする。これは、表社会が窮屈で正されない不正に満ちているからである。正しさがわかっているのに正されないからである。俠
客だけは、不正を捉えて、正す実行力をもっている。
 双全とは、対をなすものが両方ともそろっていること ex.文武双全、父母双全
 つまり、忠義双全とは、忠と義という相反するものがそろっていることである。