ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

三国志の世界から

 井波律子は、、魏・蜀・呉の君臣関係において、どのグループが「俠」であるかを比較し、
 『三国志世界において、俠の論理、俠の精神を体現した存在として突出しているのは、なんといってもこの劉備関羽張飛、そして諸葛亮である。この劉備グループと比べれば、曹操孫権の場合は、かなり様相を異にする』とする。
 劉備グループ-桃園の誓い、三顧の礼という、相手の全幅の信頼に応える、無償の君臣関係である。
 曹操グループ-曹仁、夏候惇ら、曹操との血縁関係にある武将との間にあったのは、運命共同体としての同族意識である。典韋許褚ら側近の猛将と荀彧に代表される文官との間にあったのは、強い紐帯で結ばれた「忠」の主従関係である。
 呉グループ-『こうして孫策周瑜および魯粛さらに孫権呂蒙の関係のあり方をたどってみると、各種各様とはいえ、いずれの場合も手放しで相手に惚れこみ、全人格的に結びついてとは言いがたいところがある。』
 
 私は、劉備たちのスタート自体が非正規軍であり、金銭面で余裕のないところから天下統一を目指さざるえなかった。だから、当初から、対人関係が金銭ではなく、信義を第一義に置いたエピソードが多いのだろうと思う。曹操と呉グループにも、「俠」という無償の信頼関係に応えるものがないわけではない。

【参考図書】
井波律子 中国侠客列伝 講談社学術文庫
※、一諾千金 漢代の希布は信義に篤いことで知られ、その承諾を得ることは黄金千斤よりまさるとされた故事から
 俠→侠
 
 俠客は爽快な倫理と仲間同士の信義を矜持とする。これは、表社会が窮屈で正されない不正に満ちているからである。正しさがわかっているのに正されないからである。俠
客だけは、不正を捉えて、正す実行力をもっている。
 双全とは、対をなすものが両方ともそろっていること ex.文武双全、父母双全
 つまり、忠義双全とは、忠と義という相反するものがそろっていることである。