ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

黒澤清 恐怖の対談

黒澤清 恐怖の対談 青土社
 映画のシーンは、撮影されたキャメラのアングルのカットで構成される。様々な”空間”を撮ったカットによって、シーンが出来あがる。
 
 J・ホラーの作り手たちは、ごく一般的な人、物、風景であっても、キャメラのアングル、距離によって、普段見慣れた人、物、風景が特殊な状態に陥った構図があることを発見した。作り手たちは、それを駆使して”こわさ”を演出しようと考えた。
 
 なぜ、普段見慣れたものを、キャメラのアングルによって、”こわいもの”に変化させようとしたのか?
 人間にとって、幽霊は”こわい”存在である。しかし、映画の中で、キャメラが幽霊にしっかりとピントが合うと、客にとっては、恐怖の本体である”モンスター”をしっ
かりと把握することができてしまう。すると、幽霊は登場した後よりも、登場する前の方が”こわい”のではないかと考えた。
 そこから、日本人が怖いと思うものは、”モンスター”ではなく、普段見慣れた空間で発生する心霊現象ではないかと考えた。
 ”こわさ”をもたらす恐怖の本体は、人にとって認識できる姿をもってしまうと、今までの不合理な現象の原因を説明する合理的な解答を客に与えてしまう。だから、客は、恐怖の本体であるモンスター自体ではなく、意味不明の、不可解な心霊現象の方が合理的な解答を導けないので”こわい”のである。
 また、義務教育が浸透した平成年間に入ると、客も身近なところにいるかもしれないモンスターの存在を信じられなくなった。アメリカ映画流のモンスターを日本映画内に登場させることにも、文化・風土の違いの限界があった。
 アメリカ流ではなく、日本人にとって何が怖いのかを自問した結果生まれたのが、日本のオリジナルといえるJ・ホラーであった。それは、映ってはならぬ”生”なものが映ってしまったという怖さである。たとえるならば、心霊写真に写った霊に通じるものである。

【参考図書】
黒澤清 恐怖の対談 青土社
 
 注、J・ホラーは、普段とは違う場所ではなく、いつもの見慣れた風景・場所で、いつもとは異なる心霊現象が起こるストーリーになった。
 非日常→不可解現象ではなく、日常→不可解現象である。
  病的なものと霊的なものは、日本人にとってイコールである。ex.映画「リング」における、念写映像と新聞活字
  映画「リング」の貞子こそ、日本映画が生んだ、日本人による日本人のための”モンスター”である。あれほど、恐怖の本体でありながら、映画が公開終了したあとも、その”こわい”イメージが社会に浸透しているキャラクターはいない。貞子は日本映画が作ったはじめての”モンスター”なのだ。
 つまり、映画「リング」をつくった人たちは、すごいということです。