ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

ハンナ・アーレント 3 ポリス

 政治というか、古代ギリシャ的な意味でのポリス
 
 アーレントにとって公的領域は、人々が自らの独自性=人格的アイデンティティーを公的に開示する「現われの空間」としている。
 つまり、人々が、自分が誰であるかを開示しうるのは、他の人々が見聞きすることのできる具体的な言語行為の中においてであり、この言葉と行為によって互いに差異ある存在として生きるという多数性が現実化するのである。
 言語行為はそれが他者によって理解され、価値判断されてはじめて成立するのであり、自己と世界のリアリティーは世界を共有する人々の相互主観的な承認に依存している。*1
 アーレントは、いわゆるプラトンの主張する「哲学者の真理」の中に、専制や一元論的強制化の匂いを嗅ぎ、多数な意見、すなわち自らのパースペクティブに従って持っているドクサ(意見、臆見)の方が政治には親和的であると考える。
 アーレントにとっての政治空間とは、利害や行為の調整ではない。他者が語るドクサのそれぞれの真実を受け止め吟味することであり、自分だけの力では発見できない自らの意見の非妥当性に、互いのに気づいていく営為だといえる。
 政治に複数性を認めないところから人々の「無思考性」が生まれる。
 無思考性とは、「決まり文句、常套句、習律的に標準化された表現や振るまいのコードに固執すること」を意味する。
 自分の言動に対して疑問を抱かないことであり、この無思考性から脱するためには自分に対して対話する自己及び他者が必要である。
 公的空間で互いに意見を交わすことで、自分の意見が妥当であるかを気づく必要があり、そのためにも公的空間の複数性を保証しなければならない。 共同空間は、共通の善や真理を認めることで得られるアイデンティティーを基盤とした共同体を目指すのではなく、自分と違ったアイデンティティーを持つ他者と、共通の関心を共有する空間なのである。*2
 

 注1、私が行ったということを証明するのは、私ではなく私以外の誰かである。誰かによって証明されてはじめて私は世界のなかでの場所が決定される。すると、私は常に誰かを意識した行動をとるべきである。なぜなら、世界において私が何であるのかを証明するのは誰かだからである。だから、世界において、私が何を考えていたのかは”自分にしかわからない心”ではなく、誰かによって見聞きされうる言動といった”かたち”によって推察される。
 
 注2、決定された一つの正しさを信じてもよいのか

【参考文献】
ハンナ・アーレント入門 杉浦敏子