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キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

ハンナ・アーレント 4 民主主義

民主主義 アーレントによる、ルソーの「一般意志」批判
 
 個人がともに議論し、公的関心を決定するとき、参加者の意見や見解は修正や接合され、全く同一にはならない。
 ルソーは自由を保持しながら、いかにして人々は一緒に暮らせるのかという問題の解決を求めて、一般意志という概念を提示した。しかし、一般意志を用いるならば、市民は複数の人間から成るのではなく、あたかも一人の人間から成るかのようである。
 アーレントは、この一般意志を批判する。
 「最も重要な点は、慎重な選択や意見に対する配慮に重点を置く”同意”という言葉自体が、意見交換のあらゆる過程と最終的な意見の一致を本質的に排除する”意志”という言葉に置き換えられるということである。
 意志は、もしそれが機能するとすれば、実際一つでなければならないし、不可分でなければならない。(後略)」  
 アーレントがルソー異なるのは、人民が結合するのは共通の意志によってでなはく、共通の世界を共有することによる点である。
 自由と平等の観点を維持しながら人々が一緒に暮らすために、同じように存在し、同じように思考する必要はない。市民が結びつくのは、彼らが同じ公的空間に住み、関心を共有することによって、また法を認め、意見が対立するときは調停するという取り決めによってであって、単一の意見の形成によってではない、という点である。
 さらに、アーレントは「すべての意見が同じとなったところでは、意見の形成は不可能になる。そして、意見を全員一致のものにつくり変える”強い人間”が待ち受けられるようになったとき、すべての意見は死ぬ。」と民主主義から独裁者が誕生する危険性を指摘した。
 どうして、アーレントは公的空間における自由と平等を重視するのか。
 アーレントにとって自由こそが政治の存在理由であり、自由は”意志”の中にあるのではなく”活動”のなかにある。つまり、現実世界のなかで自由が実際に機能していることである。すなわち、自由であることと活動することは同じである。*1
 アーレントにとって政治とは、合意に基づく秩序の固定化に間断なく異議を申し立て、差異性を許容する抗争として理解される。
 たしかに、そこでは完全な合意や調和的な集合意志という理念は放棄せざるをえないであろう。あらゆる理性的な人間が合意できるような「善き生」の理念といったものは存在しない。
 アーレントの思想の革新性は、すべての本質の偶然性と曖昧さを承認し、分裂と対立を認め、必然性・真理性・正常性・効用性・善性に抗する、逸脱・齟齬・矛盾のもつ本質的な部分を肯定すべきである、という点にある。
 
 注1、条文に自由が書かれていたとしても、実際に自由に行動できなければ意味がない。当たり前のことだけれど…。実際に自由といった概念が現実世界に確保されているのか。たとえば、教育が平等だとされているが、実際に教育の結果が同じようでなければ意味がないのではないか。

 合意が形成された時点でその議題に対して意見を差し挟むことができなくなる。決定事項さえ作ってしまえば、多数の意見を聞いたことになり、強引にものごとを進められる危険性がある。
 
【参考文献】
ハンナ・アーレント入門 杉浦敏子