ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

アーレントによる、近代によって変化した公的なものと私的なもの


加藤典洋による、ハンナ・アーレントに示唆を受けた、古代から現代への公的なものと私的なものの変遷
 
ハンナ・アーレントの考えを梃子に、加藤典洋は公的なものと私的なものが、古代から現代にかけてどのように変化していったのかをまとめている。
 
 古代ギリシャにおいて、人間は本然的に公的空間を作る生物である、とされる。その意思に基づき人々はポリスを形成した。一方の私的空間は、人間の生命を維持するために、足りないことがないように私自身のために働き続ける部分である。
 私的空間で人間は他でもない私自身のためだけに行動することを許されている。しかし、公的空間において人間は自分以外の参加者とともに協同し、私以外のみんなのために何ができるのかを話し合い、ものごとを決定する場所である。
 古代ギリシャで公的空間に身を置くということは、誰からも支配されないし、誰かを支配することもせず、各自が平等な関係を保っているので、命令ではなく、説得を基礎として人間の言動と活動が展開される。
 ただし、公的空間で私的空間であるかのごとく行動してはいけない。なぜなら、公的空間では私だけではなくみんなのための空間だからである。よって、公的空間への参加者は私的行為に拘泥しない”徳(この場合は古代ギリシャ哲学的な)”を持っているとされた。”徳”があるとされる行動は私ではなく、みんなのための行動だからである。
 
 政治と経済の対照関係の原型が古代ギリシャの公的=ポリスと私的=オイコスである
。ポリティクス(政治)の語源はポリスであり、エコノミー(経済)の語源はオイコス(家)とノモス(法)から作られた言葉である。公的と私的という2つの空間は相対立
しており、ハンナ・アーレントは古代から現代の間にかけて、公的と私的の相反する関係に変化が起きている、と指摘する。
 政治はこれまでにない意味と価値を新しく創る行為の領域であるのに対して、経済は人間の不変の共通の本性に根ざし、これなしには生きてはいけない不足分の充当(=解消)にあたる行為の領域を意味する。
 討論、政治、軍事、こうしたことはポリスに属する行為であり、労働、蓄財、家事、育児、葬礼はオイコスに属する行為である。前者が人間と人間のそれぞれの違いを基礎にうまれる空間だとすると、後者は人間の互いの共通性を基礎にした空間であった。
 古代ギリシャでは”徳”に立つポリスの原理に、本性に立つオイコスの原理を侮蔑した。
 近代は、古代以来の公的と私的の関係が変わった時であった。
 近代をもたらす第一の要因は商業と産業の勃興である。私的領域の経済領域にひとつの変化が生じ、遠隔地貿易や小規模工業といった手仕事を超えた商業・産業が発展した。この商業・産業が世の中の構造自体を変えてゆくようになった。
 オイコスの領域は生命維持を目的としていた。商業・産業が人間の生命維持という課題をクリアすると、オイコス領域の動因が”必要”から欲望に変化した。人間を動かす本性の力点が生命維持の必要から、いわば私利私欲という欲望に変わってしまった。”
必要”を満たす単位は古代ギリシャにおいては、私を含めた家・共同体であったが、欲望を満たす単位は個人である。
 家・共同体の解体という第二の変化は、何を引き起こしたのだろうか。
 勃興した商業・産業を家・共同体は呼び入れる。
 たとえば、家内工業の形で木靴を作って家族がいたとする。必要な量だけでなく、生産量を増やすことで家の構造、家族関係が変化する。つまり、家の中に仕事場と商取引のための応接間と家族向けの居間を必要となってくる。また兄弟がそれぞれ仕事と渉外を担当することになる。人間関係も家長を中心としたものから、利害を主とした疎遠な関係と利害を度外視した親密な関係とに分化した。
 家・共同体の解体によって、家の外の空間に「社会的なもの」としての社会が生まれ、かつての家の空間に「親密なもの」としての家庭が生まれた。
 ハンナ・アーレントは、この変化から「社会的なもの」、「親密的なもの」が発生したと指摘する。

【参考文献】
日本の無思想 加藤典洋