ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

2、書記の誣告  ※ 誣告とは、わざと事実を偽って報告すること

 このお話しは、冤罪ものである。ストーリーの進行上に”謎”がない。序盤の段階で書記が不正を行うので、その不正を終盤までに解決するだけである。この誤りを正すということを劇中人物が行うことで、客の鬱屈した感情を晴らすことができる。
 話の進行イメージは、
 事件→不正→捜査、判決→聡明な人→誤りが正される(解決、修正)、だろう。
 もし、2番目に位置する不正を終盤に置くものが探偵ものになるのだろう。イメージは以下のとおり。
 事件→捜査、判決→聡明な人→不正の発覚→誤りが正される(解決、修正)
 
 無実もの、冤罪ものにせよ、客が身近に感じるポイントは、民間より上位の公権力による過ちによって生じた被害だろう。これが客にとって親近感のあるものだから、ジャンルとして成立しているのだろう。
 近代以前のお話しなので、登場人物はみな物語の進行上の役割を担うだけで、登場人物自体がどのような人であるかといった個性は必要がない。
 彼らがどのような人か、という個性は近代以後の探偵ものの誕生まで待たなくてはならない。
 謎が生まれるのは、登場人物の誰かが嘘をついているからである。どうして人間が嘘をつくのかという探求がはじまるのは、人間以上の神が決定した運命という概念と縁を切る近代以後である。

 なぜ物語になるのか。それは誤りを正したからである。正・誤はなにをもって判定されるのか。おそらくその民族が信じる宗教、道徳、概念だろう。
 常陰比事のばあいは、聡明さという儒教の考えから、登場人物が誤りを正してゆく。つまり、人々の”正しさ”に反している誤りを正すから、みんなに伝えたくなる、また、紙に記すべき物語となる。
 物語とは、誤りを正しくする人の話である。たとえば、この常陰比事は、この時代の”正しさ”に反していることを正す人がテーマだろうし、ハリウッドの西部劇映画は、アメリカの精神に反していることを正すことがテーマである。
 
 では、日本における”正しさ”とは何か?これがわかれば日本人が潜在的に欲求する物語が創作できるのだが。

【参考文献】
中国古典文学大系 39  平凡社
※、常陰比事(とういんひじ)は、小説ではなく古来より優れた判決の実例をあげて、刑獄を司る者の参考に供した、裁判実話集である。