◎どのようにして、人間は真の知識、正しい知識を知り得るのか。
西田幾多郎によれば、認識論の問題は古代からあった。知識には真と偽の区別があり、どのような知識が偽であるのか、そのような問題は既にプラトンによってもう論じられた。
プラトンは感覚から得られた感性的な知は偽であり、理性によって得られた概念的知が真であるとしたのはそれである。アリストテレスもプラトンと同意見であった。
これは知識の確実性や限界の問題に触れているといってよい。中世では知識は信仰によって束縛されていた。ところが、近代になり学問が中世的な宗教の圧迫から脱して独立するとともに、知識が知識自身を問題にするに到った。
西田幾多郎によれば、認識論の問題は古代からあった。知識には真と偽の区別があり、どのような知識が偽であるのか、そのような問題は既にプラトンによってもう論じられた。
プラトンは感覚から得られた感性的な知は偽であり、理性によって得られた概念的知が真であるとしたのはそれである。アリストテレスもプラトンと同意見であった。
これは知識の確実性や限界の問題に触れているといってよい。中世では知識は信仰によって束縛されていた。ところが、近代になり学問が中世的な宗教の圧迫から脱して独立するとともに、知識が知識自身を問題にするに到った。
正しい知識であるという認定をするためには、人間自身がどうやって認識すれば知り得た知識が偽ではないといえるのか。
その点が近代哲学者にとって大きな問題であった。教会の権威を用いずに人々に真の知識であると認めさせることは可能なのか。
その点が近代哲学者にとって大きな問題であった。教会の権威を用いずに人々に真の知識であると認めさせることは可能なのか。
教会の教義に従わない人を迫害する強制力、実行力を教会は持っていた。近代哲学者は政府の権威をもってして真の知識を人々に対して履行した。
注、権力が教会から政府へと移行した
哲学概論 西田幾多郎
日本の無思想 加藤典洋