ホームズとオカルト ディティールを積み重ねれば必ずリアリティに近づく。
小説家バルザックは、リアリズムの元祖と呼ばれる。ではバルザックにとって「リアル」であるとは何なのか。たとえば、バルザックは「ヴォ―トラン」という登場人物を次のように描写する。「髪が黒く目が異様に光っている」と、これだけで読者は、こいつはきっと邪悪なことをやるんだろうと了解して読んでゆく。これは「観相学」というものによって立つ人物描写の約束事であった。
『ニュートンの「光学」で「網膜」という言葉を手に入れて出発したのが十八世紀、つぎに英文学は「観相学」を手にして、それを十九世紀の後半まで引きずっていく
』
小説の描写法はフランス革命前後にはじまり、対象をより多くの細部に分けて精密に累積すれば、そのもののリアリティに近づけるという「思い込み」の書き方がバルザックの「リアリズム」になる。そして、この考え方には、「推理小説」という不思議なジャンルにつながっていく。
『「ディティールを積み重ねると、必ずリアリティに突き当たる」というリアリズムの根本の観念は細かいディティールを積み重ねていけば、必ず犯人に行き当たると信じ込んでいる探偵の確信とぴったり重なる。推理小説とはつまりメタ・リアリズム小説なのだ。この脈絡がわからないと、推理小説をちゃんと文学史の中にとりこめない。早い話、推理小説は「観相術」そのものの解説書である。』
名探偵シャーロック・ホームズは、初めてあう人の来歴や好みを眼に見える情報だけで、ピタリと言い当てる。
『ホームズ・シリーズは、実はこの飽くことなき繰り返しである。これを人は「推理小説」などと簡単にいうが、実際には一体どういうジャンルのものなのか。簡単にいえば「外形と隠された本質は一致しているはずだ」というラファ―ターの魔術思想に奇怪なまでに似た思い込みの世界である。
これが十八世紀から十九世紀にかけて二百年くらいヨーロッパを支配してきた合理主義の実態なのだ。推理小説は、それが視覚的な文化とどこでどうやって接触するかをわかりやすく示してくれている。』
小説家バルザックは、リアリズムの元祖と呼ばれる。ではバルザックにとって「リアル」であるとは何なのか。たとえば、バルザックは「ヴォ―トラン」という登場人物を次のように描写する。「髪が黒く目が異様に光っている」と、これだけで読者は、こいつはきっと邪悪なことをやるんだろうと了解して読んでゆく。これは「観相学」というものによって立つ人物描写の約束事であった。
『ニュートンの「光学」で「網膜」という言葉を手に入れて出発したのが十八世紀、つぎに英文学は「観相学」を手にして、それを十九世紀の後半まで引きずっていく
』
小説の描写法はフランス革命前後にはじまり、対象をより多くの細部に分けて精密に累積すれば、そのもののリアリティに近づけるという「思い込み」の書き方がバルザックの「リアリズム」になる。そして、この考え方には、「推理小説」という不思議なジャンルにつながっていく。
『「ディティールを積み重ねると、必ずリアリティに突き当たる」というリアリズムの根本の観念は細かいディティールを積み重ねていけば、必ず犯人に行き当たると信じ込んでいる探偵の確信とぴったり重なる。推理小説とはつまりメタ・リアリズム小説なのだ。この脈絡がわからないと、推理小説をちゃんと文学史の中にとりこめない。早い話、推理小説は「観相術」そのものの解説書である。』
名探偵シャーロック・ホームズは、初めてあう人の来歴や好みを眼に見える情報だけで、ピタリと言い当てる。
『ホームズ・シリーズは、実はこの飽くことなき繰り返しである。これを人は「推理小説」などと簡単にいうが、実際には一体どういうジャンルのものなのか。簡単にいえば「外形と隠された本質は一致しているはずだ」というラファ―ターの魔術思想に奇怪なまでに似た思い込みの世界である。
これが十八世紀から十九世紀にかけて二百年くらいヨーロッパを支配してきた合理主義の実態なのだ。推理小説は、それが視覚的な文化とどこでどうやって接触するかをわかりやすく示してくれている。』
ディティールを積み重ねれば必ずリアリティに近づく…のか?
コナン・ドイルは最後には、リアリズムとは真逆のオカルティズムにはまってしまう。オカルティズムとは、元々「見えないものになる」という意味である。
「見えるものがわかるもの」、「見ないものは見えるようにしてわかる」というのが近代の主流であり、コナン・ドイルとシャーロックホームズはその代表選手的存在であった。
それがなぜ晩年に向けて、見えない世界の方がリアルなのだと伝道して歩く人間になるのか。
『その背景には、十七世紀の初めからずっと続いてきた「見る文化」への否がある。見えるものがリアリティではないという当たり前のことに、一九二〇年代になってやっと気がついたのである。
ただ、認識としてはそうであっても映画の世界でも「シュルレアリスム」でも、フロイトのいう「見えない世界を見えるようにする」ことに入れ込んで、コラージュでも何でも、とにかく全部見えるものにかえてしまおうとしたわけだから、そういう意味では、やはり近代の問題をそのまま引きずってはいるが、一九二〇年代は、視覚文化の長い歴史がとにかく一度頓挫して、「これではだめだ」とはっきり認識できた時代であることは間違いない。』
フレイザーの「金枝篇」が執筆され、「人類学」が誕生する。
「英国の世紀末」の著者富士川義久によれば、
『地上にあらわれている現象を地下で動かしている民俗的、集団的な魂魄(エートス)があるという考え方である。かなたの世界とか向こうの世界といっていたものが、地上の偽りの世界に対して、地下からエナジー・トランスファーを試みている、何かが「地下」にあるのである。』という考え方が人類学にはあるとしている。
たとえば、地上にある人間の人格は地下にある無意識なるものがコントロールしているという発想である。
『一九二〇年代は、その下の部分がエナジー・トランスファーをよこして、狂った我々の文化を批判し、多分矯正してくれるのではないか、と考えた時代なのだ。ユングのいわゆる「補償夢」の構造だ。』
コナン・ドイルは最後には、リアリズムとは真逆のオカルティズムにはまってしまう。オカルティズムとは、元々「見えないものになる」という意味である。
「見えるものがわかるもの」、「見ないものは見えるようにしてわかる」というのが近代の主流であり、コナン・ドイルとシャーロックホームズはその代表選手的存在であった。
それがなぜ晩年に向けて、見えない世界の方がリアルなのだと伝道して歩く人間になるのか。
『その背景には、十七世紀の初めからずっと続いてきた「見る文化」への否がある。見えるものがリアリティではないという当たり前のことに、一九二〇年代になってやっと気がついたのである。
ただ、認識としてはそうであっても映画の世界でも「シュルレアリスム」でも、フロイトのいう「見えない世界を見えるようにする」ことに入れ込んで、コラージュでも何でも、とにかく全部見えるものにかえてしまおうとしたわけだから、そういう意味では、やはり近代の問題をそのまま引きずってはいるが、一九二〇年代は、視覚文化の長い歴史がとにかく一度頓挫して、「これではだめだ」とはっきり認識できた時代であることは間違いない。』
フレイザーの「金枝篇」が執筆され、「人類学」が誕生する。
「英国の世紀末」の著者富士川義久によれば、
『地上にあらわれている現象を地下で動かしている民俗的、集団的な魂魄(エートス)があるという考え方である。かなたの世界とか向こうの世界といっていたものが、地上の偽りの世界に対して、地下からエナジー・トランスファーを試みている、何かが「地下」にあるのである。』という考え方が人類学にはあるとしている。
たとえば、地上にある人間の人格は地下にある無意識なるものがコントロールしているという発想である。
『一九二〇年代は、その下の部分がエナジー・トランスファーをよこして、狂った我々の文化を批判し、多分矯正してくれるのではないか、と考えた時代なのだ。ユングのいわゆる「補償夢」の構造だ。』
一九二〇年代のオカルト趣味は、いわゆる合理や機械的なものに突然反発してきたものではないか。それは、近代以前に人類にあった目に見えぬものを信じていたことが、この年代に噴出してしまったのだろう。
近代によって、不合理とされるものは、抑圧された。その近代の可視文化の雲行きがあやしくなってきたことで、人類のなかにある不合理とされるオカルトが再び目覚めたのである。突然オカルティズムが出現したわけではないと思う。
近代によって、不合理とされるものは、抑圧された。その近代の可視文化の雲行きがあやしくなってきたことで、人類のなかにある不合理とされるオカルトが再び目覚めたのである。突然オカルティズムが出現したわけではないと思う。
注、60年代のrockがかっこいいのは、英文学のリアリティへの過信のように、音楽で世界を変えられるんじゃないかという思い込みが楽曲にあるからではないか。ウッドストック以後、何も変わらない現実社会が在り続けたことから、60年代rockが宿していた熱意は失われてしまった。