ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

カフカの「判決」と「流刑地にて」を読んだ

 『判決』はカフカが自分なりの小説の書き方を会得した作品だそうだ。読んでみると、友人に手紙を出そうとしている成年が父親と口論になり、家の外に出る話であった。
 日常生活にありそうな一コマであり、創作講座でアイディアとして講師に提案したら即座にボツにされそうなテーマだが、『変身』しかカフカを読んだことがない私でもどこを読んでもカフカとしか言えない文章表現で埋め尽くされている。
 これで手応えをつかんだということは、カフカは始めから劇的なロマンスのようなものが書きたかったわけではなかったのだろう。
 あとがきに書いてあったのだが、カフカの小説を日本で最も早く読んだ可能性が高いのが『山月記』を書いた中島敦であるのが豆知識好きの私にとって一番面白かった。

 
 近代社会を経た現代社会の真っ只中に私たちは存在している。社会システムは整備され、生命の危機や恐怖の対象になるものはすべて排除されているといえる。それは目にみえる生き物だけでなく、肉眼だけではとらえきれない菌やウィルスにも当てはまる。現代社会の人間は安全で健全な社会システムによって守られている。
 だが、安全で平和な社会の中で人生をエンジョイするべきな私たちが息苦しさを感じるのも少なくないはずである。
 私は『流刑地にて』の旅行者と将校の後半の会話に表わされる社会システムの前で成すすべもないひとりの人間の無力さこそ、この現代にも通じる息苦しさの不安・不満の正体ではないかと思う。
 小説前半で将校は旅行者に死刑執行のための機械について丁寧に説明をするが、後半になると将校は旅行者に内密な話として現司令官への不満を漏らしてゆく。
 現司令官よる執行手順を、前司令官を信奉する将校は誤りだと考えている。だが、将校はその誤りを司令官という職務上の立場が持つ絶対的な権力を恐れるが故に正すことができない。
 将校は、「面と向かって指図することも簡単なことなのに、それだけの勇貴がないのです。」として不安・不満をためるばかりである。
 ここにある将校と現司令官の関係こそ安全で健全な社会システムの前で何も変えられないひとりの人間の生である。
 私たちが安全で健全な社会システムとの対立を余儀なくされるとき、社会システムそのものは姿を見せない。社会システムはいつでも担当の職員という人間の姿をとって現れる。その職員は、私たちが意見を言う権利があるから、ものを言う権利を認めているだけであって制度上のルールに則て物事を進めてゆく。そして、納得がいかないと思って担当者に暴力を振るったらそれは犯罪として処罰されてしまう。
 つまり、非体制側の人間は体制側が決定したことに対して、何をしようが無力なのである。
 人間たちを守ってくれる社会システムと対立してしまったとき、人間に不安と不満をもたらす不条理な存在だと感じたからこそ、カフカ作品において、互いの意図が通じ合わない会話が多いのであり、そして主人公も救済されることがないのである。

 …と思った。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 将校は自ら機械にかけらて死を選ぶが、それは他者から理解されない狂うことにほかならない。狂うことでこの現代社会から逃れることもひとつの手段ではある。
 

 

 

 

 体制側の措置に反対しようとして担当者に暴力を振るうことは違反である。ならば体制を変えるためには政治家として与党を形成して体制を変えて行くしかない。そんな単純な考えにたどり着くのに随分時間がかかってしまった。
 身近な人に区議、村議、町議レベルから少しづつ立候補してもらって議席を確保することも政治資金のロンダリングや無駄な開発を阻止するための有効な手段である。
 投票、立候補という政治の場に参加して、政治家が犯した罪やバレていない嘘を断罪していかなければ、与党政治家が身を慎んだ言動をするわけがないのだから。

 人は危険だからこそ気をつける生き物である。