D&Dを作った男 ゲイリー・ガイギャックス
D&Dは、卓上ゲームの中でも独特の一分野、ロール・プレイング・ゲーム(RPG)と呼ばれる分野を開拓した。
RPGはミニチュアウォーゲームの戦術性とグループ・ストーリーテリング(複数人物でお話しを作る活動)の柔軟性と創造性を兼ね備えていた。つまり、自分の動かす駒が闘い、それが未知のお話を参加者たちが作り出してゆくという2点が画期的であった。
D&Dを遊ぶ際には、ダンジョン・マスター(DM)と呼ばれる審判役が空想上の冒険を用意する。プレイヤーは、自分だけの個性と各能力を備えた「キャラクター」を作り、他のプレイヤーと力を合わせて冒険をくぐり抜けることになる。
”ごっこ遊び”ではあるが、DMが作り出す空想世界には厳格なルールが存在する。プレイヤーはルールには絶対に従わなければならないし、それをねじ曲げることはできない。この点は、ファミコンのRPGと同じだと思うが、プレイヤーとDMが一対一なのがテレビゲームにおけるRPGのプレイヤーとDMの関係だが、TRPGは自分以外の他者を必要とする。自分ではない参加者が、たった一人の自分だけでは思いもつかないような話を作るきっかけとなる。
通常のボードゲームは一回集まって遊べばそれでおしまいだが、D&Dでは、往々にしてキャラクターも冒険も一回でおしまいではなく、続きがあり、成長があり、プレイヤーにとってもダンジョンマスター(DM)にとっても濃密で後を引く継続性がある。
何度でも何回でも新しい冒険が新しいストーリーを生むからこそ、D&Dは他のボード・ゲームよりも多くのプレイヤーに世代を超えて親しまれたのだろう。
RPGはミニチュアウォーゲームの戦術性とグループ・ストーリーテリング(複数人物でお話しを作る活動)の柔軟性と創造性を兼ね備えていた。つまり、自分の動かす駒が闘い、それが未知のお話を参加者たちが作り出してゆくという2点が画期的であった。
D&Dを遊ぶ際には、ダンジョン・マスター(DM)と呼ばれる審判役が空想上の冒険を用意する。プレイヤーは、自分だけの個性と各能力を備えた「キャラクター」を作り、他のプレイヤーと力を合わせて冒険をくぐり抜けることになる。
”ごっこ遊び”ではあるが、DMが作り出す空想世界には厳格なルールが存在する。プレイヤーはルールには絶対に従わなければならないし、それをねじ曲げることはできない。この点は、ファミコンのRPGと同じだと思うが、プレイヤーとDMが一対一なのがテレビゲームにおけるRPGのプレイヤーとDMの関係だが、TRPGは自分以外の他者を必要とする。自分ではない参加者が、たった一人の自分だけでは思いもつかないような話を作るきっかけとなる。
通常のボードゲームは一回集まって遊べばそれでおしまいだが、D&Dでは、往々にしてキャラクターも冒険も一回でおしまいではなく、続きがあり、成長があり、プレイヤーにとってもダンジョンマスター(DM)にとっても濃密で後を引く継続性がある。
何度でも何回でも新しい冒険が新しいストーリーを生むからこそ、D&Dは他のボード・ゲームよりも多くのプレイヤーに世代を超えて親しまれたのだろう。
以下メモ
指輪物語はハイ・ファンタジーと呼ばれる。高尚な思想に裏打ちされた壮大な物語が展開する。しかし、D&D創造以前の一般大衆は『指輪物語』に代表されるハイ・ファンタジーよりも、征服王コナンに代表されるロー・ファンタジーを好んで読んでいたのではないか(ロー・ファンタジーとは、日本におけるチャンバラものである)。
ロー・ファンタジーのよくあるキャラクターのよくあるストーリーだが、読者を喜ばせるには充分なアクション&ロマンスは、TRPGという一種の”ごっこ遊び”には適
指輪物語はハイ・ファンタジーと呼ばれる。高尚な思想に裏打ちされた壮大な物語が展開する。しかし、D&D創造以前の一般大衆は『指輪物語』に代表されるハイ・ファンタジーよりも、征服王コナンに代表されるロー・ファンタジーを好んで読んでいたのではないか(ロー・ファンタジーとは、日本におけるチャンバラものである)。
ロー・ファンタジーのよくあるキャラクターのよくあるストーリーだが、読者を喜ばせるには充分なアクション&ロマンスは、TRPGという一種の”ごっこ遊び”には適
現実世界の戦闘結果をシュミレートするには5%、つまり20分の1(正二十面体ダイス)の方が六面体ダイスよりも向いているので、正二十面体ダイスがD&Dで採用された。
プレイヤーは卓上のミニチュアで戦闘等を処理する。DMがゲームの各種データをあらかじめ決めて進行させるだけで、かつてないほどのプレイヤーを夢中にさせる豊かなゲームができた。
そこに複数名のプレイヤーが参加することで、参加者みんなでお話しを作る試みが生まれる。それは台本のない演劇のようであり、プレイヤーが空想世界の住人となって主観的に行動できる。
それを可能にしたのがD&DというRPGであった。
そこに複数名のプレイヤーが参加することで、参加者みんなでお話しを作る試みが生まれる。それは台本のない演劇のようであり、プレイヤーが空想世界の住人となって主観的に行動できる。
それを可能にしたのがD&DというRPGであった。
プレイヤーは、DMに従い、行動する。話の端緒はDMが作る。プレイヤーではない。
テレビゲームのRPGでストーリーを追うのは、ストーリーの始まりを知ってしまったので、おしまいまで知りたいという欲求から、プレイヤーは続きを知るためにゲームを進めて、いつのまにかストーリーの終わりまでたどりついている。
プレイヤーはゲームが終盤になるにつれ、序盤での苦労が思い出されて、最大公約数に提供された物語に自分がプレイヤーとして味わった苦労が加味され、自分だけのストーリー、もしくは思い入れが生まれる。この自分だけのストーリーとは、ゲーム内の苦労だけではなく、ゲーム外の事情も含まれる。例えば、母親からのゲーム禁止令をくぐり抜けてプレイした、ということなどである。
ゲームのストーリーはよくあるアクション&ロマンスであって、お話しの始めから終わりまでを知ることで感動するのではなく、プレイヤー自身が、RPGの世界に当事者として介入し、苦労するからこそ面白いである。そのためにこそ、よくあるストーリーは一種の”ごっこ遊び”であるRPGにもっとも適した筋書きとなるのである。だから、RPGのストーリーはみなどこか似たような印象があるのである。
プレイヤーはゲームが終盤になるにつれ、序盤での苦労が思い出されて、最大公約数に提供された物語に自分がプレイヤーとして味わった苦労が加味され、自分だけのストーリー、もしくは思い入れが生まれる。この自分だけのストーリーとは、ゲーム内の苦労だけではなく、ゲーム外の事情も含まれる。例えば、母親からのゲーム禁止令をくぐり抜けてプレイした、ということなどである。
ゲームのストーリーはよくあるアクション&ロマンスであって、お話しの始めから終わりまでを知ることで感動するのではなく、プレイヤー自身が、RPGの世界に当事者として介入し、苦労するからこそ面白いである。そのためにこそ、よくあるストーリーは一種の”ごっこ遊び”であるRPGにもっとも適した筋書きとなるのである。だから、RPGのストーリーはみなどこか似たような印象があるのである。
FFはストーリーを進めると、一度立ち寄った場所に戻るといったことはあまりない。対して、DQは、ストーリーが進むごとに一度立ち寄った場所に戻って、以前ではできなかったことをするということが多い気がする。
またDQの特徴として、他人の家をあさるといった”悪さ”、”いたずら”ができるのも特徴のひとつだと思う。あくまでも架空の世界のゲームだからこそ、現実ではでき
またDQの特徴として、他人の家をあさるといった”悪さ”、”いたずら”ができるのも特徴のひとつだと思う。あくまでも架空の世界のゲームだからこそ、現実ではでき
ない”悪さ”ができるというのもプレイヤーの楽しみのひとつである。
できないことができるということが、RPGの魅力だからである。
できないことができるということが、RPGの魅力だからである。