二律背反とは、2つの主張のどちらもが本当らしくみえるのに結論が正反対の状態のことを指す。
たとえば、A”世界は時間にも初めがあり、空間的にも限りがあるものである”と、B”世界は時間的にも空間的にも無限である”というカントによって立てられものが有名である。このような二律背反は理性の力をあまりにも信じすぎることから起こる。
これは経験できないことを頭の中だけで考えることにより、空回りが生じて答えが分裂してしまう結果だと、カントは考えた。
そこで、カントは人間の認識の仕組みを明らかにし、人間に分かる領域と分からない領域を線引きした。
カントは、人が何かを認識するときは以下の手順を踏むとした。
一、まず「感性」によって対象が与えられる。
二、この対象が「悟性」によって情報処理される。
三、これを「理性」が大きくまとめる。
たとえば、感性によって、外で何かが鳴いているということが頭の中に入る。悟性によって、鳴き声がニャーであることから近所の三毛猫だと情報処理をする。このあと、三毛猫とは違うアメリカンショートヘアやロシアンブルーに出くわしても、理性によって生物学上の猫ということが分かる。
これは人間が理性による概念を普遍化するからである。
人はカメラのようなものでそのまま物体を写しているのではなく、頭の中の情報フィルターのようなものを通して認識ができると考えた。
だからカントによると、客観は主観の働きによって構成されたものである。つまり、見る側が、見られる側がなんであるかを決定するということである。
コペルニクス的転回について…認識論において、人間の認識は外部にある対象を受け入れるものである、とするのが従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは人間は物自体を認識することはできず、人間の認識が現象を構成するものだと説いた。
このことから、物事の見方が180度変わることをコペルニクス的転回と言うようになった。
このことから、物事の見方が180度変わることをコペルニクス的転回と言うようになった。
注、経験を超えた範囲については、考えるだけでは結論がでない。ではどんな経験をすれば真の知識を認識できるのか。
【参考文献】
超訳 哲学者図鑑 富増章成
超訳 哲学者図鑑 富増章成
哲学概論 西田幾多郎
日本の無思想 加藤典洋