ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

フーコー 決められただけなんだよ

 狂気と正常という基準が最初から決まっていたのだろうか。
 フーコーは狂気が先にあるのではなく、社会が狂気を規定し、意味づけという区別を行っていると考えた。つまり、狂気というものは理性と(正常)との関係で歴史的に形成された、ということになる。
 フーコーによると、西欧社会において中世までは狂気の人は神から遣わされと解され、常人と区別されずに共存していた。やがて、狂気の人は監視の対象となる。
 理性と狂気という線引きがなされることで狂気が病であるとされ、18世紀から狂人は保護施設で、常人とは隔離されるという制度が設けられる。
 フーコーによれば、医学という観点から狂気が病気に分類され、精神病が成立したのである。
 ものとものとの間に区切りをいれることで、ものは分類される(概念が生まれる)。その線引きは、はじめからあったのではなく歴史的な推移によって社会が決めたことである。フーコーは人間の知の歴史的変遷を追い、時代によって、ものとものとの間の区別が異なることを明らかにした。それをエピスメーテー(知の枠組み、思考の土代)と名付けた。
 たとえば、中世のエピスメーテーは類似であった。中世の人々は、クルミは脳と形が似ているから頭に良い効果があると信じた。神秘的な類似の思考が中世のエピスメーテー(ものの考え方、発想)であった。17世紀後半になると、対象を分類・整理する時代が到来する。デカルトのように人々は対象を理性によって認識するというエピスメーテーであった。
 人は考えているようで、その時代の思考様式でしか考えることができないのであろう。
 
 注、フーコーのエピスメーテーによって考えることは、フーコーのエピスメーテーによって考えさせられているということである。


【参考文献】
 超訳 哲学者図鑑 富増章成
 哲学概論 西田幾多郎
 日本の無思想 加藤典洋