ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

真理を解明しようとするのは人間の本能ではないか

 人間には、好奇心、探求心があり、世の中の現象を見て”何故しかるのか”と考えた。
 もの・ことに作用する原因を真理と名付け、それが発見されれば世の現象すべてを説明できるので、哲学者は様々な仮説を立てて真理を知ろうとした。

 ソクラテス…問答法を用いて、ソクラテスは質問される人の無知をあばいた。
 人間は誰もがなにが正しくてなにが間違っているのかを、本当は心の奥底で知っていると、ソクラテスは考えていた。だから、問答していけば自然に心の中にある真実がじりじりと明らかにしようとした。

 ソクラテスの設定、人は先天的に善悪の基準がある。
 
 注、しかし、していいことわるいことは生活文化によって設定されていると思うが、真理として存在すると考えたのか。

 
 プラトンプラトンは、ものの本質はイデアにあるとした。
 たとえば、「赤とは何か?」、「赤の本質とは何か?」と問われたらどうやって答えるか。バラの赤、信号の赤、リンゴの赤、という説明では充分ではなく、赤いと言われるすべてにあてはまる「赤そのもの」を説明しなくてはならない。それが、「赤のイデア」である。
 世の中の「赤」がたとえどのように変化しても、「赤そのもの」である「赤のイデア」は現象の世界を超えた「イデア界」に存在する。
 私たちが住んでいる世界は生々流転して不完全だが、そのもととなる完全な存在がイデアであり、それは現実を超えた別世界にある。
 誰の立場から眺めても、”ホントウのこと”であるイデアが存在する。例えば、強盗がいいか悪いかは、”強盗のイデア”に照らしてみれば分かる。
 この現実のすべての物質に対応したイデアが存在する。つまり、机には”机のイデア”、青には”青のイデア”が存在する。
 私たちは、もの・ことの「ホントウのこと」=イデアを見たり聞いたりできないとしても考えることはできる。イデアは感覚でとらえるのではなく、理性の力でとらえることができるとプラトンは設定した。
 
 注、西田幾多郎によれば、近代哲学は中世哲学に反抗して起こった。
 中世ではキリスト教がすべての文化の中心であり、あらゆる文化価値はそれによって統一されていた。しかし、中世の末期キリスト教の信仰が弱まり、教会の権威が薄らぐとともに個人が自由に自己の理性で思索するようになり、個人的思索は啓示に頼らず、「自然の光」即ち我々の理性と経験の教えるところに基づいて営まれるようになった。
 近代哲学が宗教の権威から離れ、人間が自分の理性や経験で色々な問題を考えようとしたとき、人間が人間自身の力ではたしてどこまで問題を解決し得るか、特に従来宗教を基として論ぜられてきた問題にはたしてどこまで迫り得るか、こうした反省が起った。
 ここから知識が知識自身を問題とする認識論的傾向が現れる。

 宗教が統一した文化価値を近代哲学は清算する。近代哲学が説く新しい知識が偽の知識ではなく、真の知識でなくてはならない。
 近代哲学者は真の知識である真理を理性か経験によって得ようとした。
 
 美術という概念は近代によって生まれたのではないか。 
 近代哲学者によって、絵画や彫刻といった工芸品は美術品として分類されることになる。ベルサイユ宮殿に所蔵された多くの工芸品を保護する理由として、美しいイデアに対応する工芸品を美術品とすることで文化価値を与え後世にわたって所蔵すべしとしたのだろう。

 近代哲学者は古代ギリシャ・ローマに原点回帰しようとする。キリスト教の教義に由らない行動規範をもっていると近代哲学者が設定したからであろう。

【参考文献】
 超訳 哲学者図鑑 富増章成
 哲学概論 西田幾多郎
 日本の無思想 加藤典洋