ぎんゆうしじんになりたい男のブログ

キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよぉ by 上田晋也(くりいむしちゅー)

2、シェイクスピア

 シェイクスピアのアンビギュイティ(多義性):シェイクスピアにみる近代の以前以後
 『考えてみると、シェイクスピアは死後三百年にわたって、冷遇されつづけた。今我々の知るシェイクスピアは二十世紀のうんだものなのだ。本書前半の立役者たる王立協会が一六六〇年代にロンドンにできたために、いわば古典的な「イギリス」がそこで抹殺されてしまったこととも関係がある。
 歴史的には、ピューリタン清教徒)が出てきて(清教徒革命、一六四九)、ピューリタニズム以前のあらゆるものが排斥される。怪獣を売りの「ベオウルフ」(八世紀)から晦渋が売りのシェイクスピア劇やジョン・ダンの詩までアングロサクソン的といってよい伝統が、そこでいったん滅ぶ。
 晦渋といえば「アンビギュイティ(ambiguity)」という言葉がすぐに思い出される。日本語にはいまひとつピンと来る言葉がなく、「あいまいさ」と訳されていた。それをたとえば山口昌男氏は、「両義性」と訳すべきだと主張した。今は岩波文庫で読めるその「文化と両義性」は一九六〇年型知性にとって「アンビギュイティ」がいかに大事なものだったかの証だ。
 英文学研究の世界では、「アンビギュイティ」は「あいまいさ」ではなく「両義性」「多義性」という意味だとする積極的な転換が問題の一九二〇年代にすでにあらわれ、そこから一世風靡のニュー・クリティシズム(新批評派)が出てきて、新批評派は文学作品の価値をアンビギュイティ、パラドックス、そしてアイロニーの使い方の上手いか下手かに置いた。どれも、Aの表現で実はBを意味する表現方法である。
 考えてみれば、一つの文学でも、とらえ方によっては、七つも八つも意味を持つ。それでいいのではないかというのがアンビギュイティやパラドックスである。(御略)』
 アンビギュイティの例として、「ハムレット」の台詞、「アイアムトゥーマッチインザサン」を挙げる。
 『一六二三年に、決定的な台本ができるまで、シェイクスピアの芝居を読むことはできなかった。「ハムレット」が書かれたのは一六〇一年である。二十二年間、活字がなかったわけだ。役者に与えられたのは、各々のパートを書いたせりふのみだった。オフェーリア役の女優がハムレットのせりふを知ることは、ほとんどなかった。今日、シェイクスピアを勉強する人が必ず手にするような一貫した台本はなかったのである。まず、この本来の非活字性を頭に入れておこう。』
 I am too much in the sun.という台詞を客が聴いた場合、「あまりにも日向に長くいたから…」(ハムレットの)気がふれたのだと、解することもできるし、王位をおじが簒奪したのだから、sunをson(息子)として、「おまえ(おじ)のおかげで、いつまでも息子の立場だ。」という怒りを表現したともとれる。
 つまり、日本語でいうところの掛け詞、縁語、駄洒落、下ネタの暗喩がちりばめられており、客は、活字を見ることではなく、台詞を聴くことで、アンビギュイティな台詞を理解していたのではないか。
 『活字に毒された我々とは違って、いつも小屋へ行って肉声で芝居を見ていた観客、つまり現代の我々ほど「耳が悪くはない」観客たちは、この二つの意味を同時に感取できていたのではないか。シェイクスピア劇の重要なせりふのほとんどが、そういった口誦的な、つまりはとてもアンビギュイティな構造を持っている。口誦から活字への転換が失ったものは、これまた一九六〇年代、有名なメディア論者マーシャル・マクルーハンがはっきり問題にした。超英文学はメディア論と手を結びだす。』
 どうして、ことばの多義性、両義性、つまり、アンビギュイティが抑止されたのか。どうして、ひとつの言葉からひとつの意味が、ひとつの表象が、結びつけられるようになったのか。つまり、近代的な言葉の特徴である、明確で正確な表現はいつ生まれたのだろうか。
 シェイクスピアの没後四十年ぐらいに、王立協会は、アンビギュイティな言葉を問題視する。王立協会は、ひとつの言葉が、ふたつ以上の意味を有してはならないと考えた。”サン”という発声音を聴いて、sonともsunとも捉えてはならないとした。
 ひとつの言葉から、ふたつ以上の意味、表象が生まれることは、メッセージの投げ合いをする上でまずいからである。誤解を容認するようなコミュニケーションを駆逐せよと主張したのが、ピューリタンの数学者からなる王立協会であった。王立協会のひとつの言葉にひとつの意味、ひとつの表象というアンビギュイティな表現を抑制する動きと、ピューリタンの劇場封鎖によって、多義性のある言葉の表現は成立しずらくなった。
 ひとつの言葉にひとつの意味を持たせるには、ある”もの”に対して、ひとつだけの言葉を当て、ひとつだけの意味を持たせる必要がある。「物」に対して「言葉」を結びつけ、「物A」と「物B」を区別する「物A」=「言葉A」=「表象A」という科学的な公式に似た「契約」が近代において行われることになった。「あいまいさ」から「正確」な言葉の表現へと移り変わってゆく。

【参考図書】
高山宏 奇想天外・英文学講義 講談社選書メチエ

注、高山宏は、ことばの表現は本来、多義的であいまいであった。ひとつの言葉にひとつの意味、ひとつの表象をもたせることには無理があった、とする。
だから、一九二〇年代シュルレアリスムなどが出てきて、「これはパイプである証拠はない」と言い出したのは、時間の問題であったとしている。
 ある”もの”に、ある”ことば”を結び、人々に、ひとつの意味とひとつの表象を思い浮かべてもらう。そうすることで、多義性のあることばの発信や感受する力は抑止されていった。

 近代→視覚の解明による描写の誕生。ことばの意味整理による、多義性な表現の抑止。
 もの←ことば、そこからひとつの意味とひとつの表象が思い描かれるように教育することで、万人が”ある言葉”から万人共通の同じ意味、万人共通の同じ表象を想起するようになった。
 表象:知覚に基づいて意識にあらわれる外的対象の像 by広辞苑